何が本当で、それは誰が決めるのか?

画は、いつものガールズ4人と小さなLady一人の
五人でのごはん会ナイフとフォークのもの。

できることをひとつずつ

私みたいな人って結構居ると思うんだけど
それは…
最近の例で言えば…
ある本に書いてあったことが事実ではなくて
フィクションだった と分かったら
その本の内容に書いてあったことが全部嘘に
思えて嫌になる
できることをひとつずつ

みなさまは、そんなことありませんか?
できることをひとつずつ

以前の私なら「何だ!嘘だったのDASH!
と憤慨して本から学んだ事柄も全部無視する
ような人でした。

できることをひとつずつ

このところ、変わってきたなぁと自分で思っている
ところは、
「それが本当でも嘘でも、正しいか正しくないかが
問題ではない」と思えるようになったところです。

正しくても正しくなくても(真実でも真実でなくても)
そこから学んだことを私が取り入れたいと思うかどうか。
本当のことは自分が行動して確かめるべきで
Aさんの書いていたことが嘘だったってBさんが言っていたと
Cさん(または複数の人)がネットで書いていたり
言葉として伝えているのは、それはCさん(または複数の人)
のある意見。だったりするわけです。

そんなとき、Aさんの書いていたことが嘘であった
らしいと聞いて 私が学んだ事柄をどう判断するのか?
に影響を与えるようなことだろうか? と自問。

Aさんの書いていたことに自分が納得する(同意する)
ところが多く、取り入れたいと思っていれば
事実であるかどうか ということは
今の私には「どっちでもいい」星

もちろん、事件や事故などの場合は別で
「本当はどうなのか?」と問われなくてはならないと思う。

そうでないものについては、一つの事柄は一つの面しか
持っていないのではなく、私の見方とみんなの見方は
違うかもしれない。と思うのです。

以前、旧友と話をしたように
「私が赤と思っている色と、友が赤と思っている色は
同じ物体(赤)を指差して話をするけれども、それぞれが
脳で思い描いている色は別のものかもしれない…と」
そいうことなんじゃないかなぁ。

とりとめもない話を読んでいただいてありがとうございます。

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